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帰路

 GWにとても楽しいことがあったのでその余韻がふわふわとまとわりついていて、日常も夢の一部みたいに感じられる。うれしいことに今日は休日なので、心置きなく現実と想像の中間層みたいなところにとどまっていられる。幸せだ。

 普段はいろいろ考えたくても、考え始めるとバイトで人との会話が上手くできなくなってしまうし、段取りよく仕事をすることができなくなってしまうので、バイトがある日はあんまりしないようにしている。そのかわりにマンガを読んだりとかラジオを聞いたりしている。仕事に対してはまじめにやろうと思っている。それしかできることがないので他のことは求めないでほしい、いや別に求められてはいないと思うけれど、期待はしないでほしい。5月12日で本屋のバイトが二年目を迎えるんだけれど、振り返れば主にえへへしか言っていないし、二回無断欠勤するし、本はよく落とすし、ギリギリのバランスで人間関係を維持していた、気がする。

 小学校高学年くらいから人間関係は毎日、窯の火を保つみたいな、微妙で目が離せない仕事で、無難無難無難、多くは求めないのでせめて無難、それだけは、と思っている。こう口に出してみるとなんとも味気ない。切なっ。その割には折に触れて人に助けてもらうことがたくさんあって、自分のスペースだけにこもっていたらその人たちに感謝することも、その人たちのために何かをしようとすることもできないのになあ、でもまだ根本的には人に嫌われるのが怖い。人に嫌われて、傷つけられるのがこわい。受け入れられないのが怖い。すみません。多分根っこにある、自分自身が何をして生きていきたいのか、とか、家族との折り合いのつけ方、とか、それが一段落つくまでは人との関係もうまい落としどころが見つからないかもしれないなぁって気がする。自分と他人との関わりだから、自分が定まっていなければ他の人に応えられないのは道理といえば道理な気がする。ともかく、私はそういう性格なんだ。

 収まらないところに無理に収まろうとするのは止めたほうがいいと言われた。自分でももうそろそろそれは止めよう、と思う。足りないところを無理に補おうとするより、いいところを大切にしたほうがいい。それができないのは自分のいいところが分からないからなんだろう。好きなことでもいいんだろうけど、純粋に好きなことって、難しくない?好きだけどもっと上がいるし、とか、好きだけど人に語れるほどその物事を体系的に捉えていないし、とか、そういうことを考えてしまっていた。ぐるぐるぐるぐる、自分で自分を縛ってしまうこれは何なんだ一体。でもなんでそれに縛られてしまうかというと、私は好きなものはただ好きしかない、そこに他人の視線や他者にどう説明するかを挟むと、とたんに訳が分からなくなってしまう。昔からそうですね。好きにやらせてくれ、って思うことがたくさんあった。好きなことをやろうとすると叱られて、好きでもないことを褒められてうんざりして、何かを気ままにやる、っていうことができなくなっていた。本だけはその中で中庸にいたというか、私も好きだし、周りも特に関心を示さないし。その感じが好きなんだ、なのに私はいつの間にか本ですらも好きに読めなくなっていた。おばか。自分の好きなものくらい自分で守れ。村上春樹との出会いは衝撃的だった。村上春樹に出会ってからは村上春樹の本と、村上春樹が読んでいた本、好きな映画、好きな音楽を漁るのに必死になっていた。あまりに偉大な存在は人を無力にさせるんだな。知らずに洗脳されていた。いや向こうはただ本を書いているだけだし、私も心酔しているつもりはなかった。でもいつの間にか存在が自分を侵食していたというか、私も村上春樹みたいになりたい、なれるんじゃないか、みたいなところが意識下にあったと思う。でもそれはあり得ない。人には人のルーツがあるし、生まれた時点で人は唯一無二であり他にはなれない。他人を追いかけ続けているうちはまだまだ甘いな。ユングアドラーフロイトからはいずれ分かれる運命にあった。よき師というものは、進むべき道を見つける力を養ってくれる人なのかもしれない。そこが密室的で風通しが悪いと、危ない宗教団体のようになっていくのだろう。