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ぷかぷか浮いている

 久しぶりにゆっくり書ける。時間はあったんだけれど、日ごろ気を張り詰めているから一人の時はボーーーっとしてしまって、頭をがらんとしてとりあえず換気、みたいな感じだった。

 

 二十年たって、結局元の場所に行きついたような気がする。幼稚園年少のときはすごく内気で、友達がろくにできなくて、仲間に入ろうとしても断られて、一人で折り紙を折ったりビーズをしたりしていたら先生が女の子の輪に入れようとしてくれた。でも正直迷惑だった。いやいや私は一人で寂しくないんで、一回断られてるんで、まあ折り紙も楽しいんで別にそんなに気を使わないでください… って思ったのを覚えている。 で、結局先生の口利きで一旦ピーターパンごっこだかなんだかの仲間には入れてもらったんだけれど、たぶん次の日とかにはもう一緒に遊ばなくなっていた。あとは自分の組に遊ぶ人がいなくて一つ上の組にふらっと行ったら、粘土を型抜きして、そこにビーズとかマニキュアでデコレーションするっていうすごく魅力的な遊びをしていて、そこになぜか混ぜてもらった。でも後で手にマニキュアがついているのが受け持ちの先生に目ざとく見つかって、激しく問い詰められて、自分の帽子の下に隠しておいたさっき作った粘土のありかまで連れて行かされた。よく考えたらそのころからおおよそぼんやり自分の性質って変わっていない気がする。友達も、そのころからみんなでわいわいより、すごく親しい子と二人で遊ぶことのが楽しかった。昔仲良かった子と今は誰とも仲良くないけれど。というか私たち昔すごく仲良かったよね…、っていう元恋人みたいなぎくしゃくした関係になって、友達にすら戻れずに沈黙している。他人と一定以上親しくなるのには、限界があるんだな。こう考えると恋愛も友情も肉体関係が関わってくるかそうでないかだけで、そう違いはないんじゃないか。恋愛ってそんなにいいものだろうか。性をもって一定の境界を超えられるか否かだけなんじゃないかという気がしてくる。最近一人で生活を営むのに限界を感じてきたからもう恋愛とかいいので、結婚したい。でもなんとなく、そのうちぽーんと出会いがあるような予感がしなくもない。求めよ、さすれば与えられん。あっちにいったりこっちに行ったりしたけれど、つまり自分はこういう人間で、相対的に見るとこういう立ち位置にいる、っていうのが再定義された二十年で。ほかの人は学校に行きつつこういうのを自然につかんでいるのかもしれない。みんなこういうことをしつつ部活勉強とかやってすごいね。というかそれが自分の一部なのかもしれない。私の場合こういうことが自分の内側にあることは基本的にない。常に外部にある。内側には決して入らない。だから日常生活の中で外側が内側にあって、内側が外側に追いやられている状態が続くからすごいしんどい。利き手を奪われているようなものだ。かといって、のびのび自由でいられる空間を獲得してもいないので、不完全燃焼の状態がずっと続いている。高校のときだいぶ年配の世界史の先生が、君たちにの心には内側に熱い情熱がありますよね、みたいなことを言っていてそれが妙に心に残っている。世界史Aなのに教科書を無視して自作プリントで世界史B並みの授業をするから当時は訳が分からなくてすごく嫌だったけれど今思えばすごくありがたいしあの先生の授業が一番記憶に残っている。やっぱり圧倒的な教養と熱意を持った先生の授業は自然と記憶に蓄積されて行って、だから環境ってすごく大事だと思う。かといって熱意はあるけれどいまいち学のない先生の授業は、分かりやすいけれど残るものがなくてそれはそれでつまらなかった。高校のみんなは割とそれを嗅ぎ分けていて、授業の内容が浅い先生は結構馬鹿にされていた気がする。先生って毎回同じ授業を受け持つクラスの分だけやって、それを毎年毎年繰り返すのだから途方もない作業だなあ。けっこう病みやすい職業な気がする。さらに子供の容赦ない視線にさらされ続けなくてはならないし。この世のあらゆることだいたい容赦がないから、どんな状況においても耐えのびて抜きんでるものなんてひとにぎりなんだろうけれど。