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とあるおじいちゃんにも会ったんだけれどまた今度

travisのライブに行ってきた。なんばhatchに入って入場待ちしていた時からうすうす感じたけれど、travisのファン層かなり好きだ。同い年くらいから中年まで、国籍もちらほら外国人がいて、さまざまだったんだけど、みんな穏やかだけれど熱くて、travis

が本当に好きなんだなあって感じだった。全体としては30代が多かったのかなあ。女性もジーパンにTシャツスニーカーみたいな動きやすい感じの人が多くて、こんな感じの気のいい女の子とお友達になれたら素敵だろうなと思った。モッシュのときもぐいぐい押してくる感じなくて、節度があったし、ノリもみんな様々だし。日本のアーティストのライブだと、この曲のこのメロディーはこの振りで動く、みたいな暗黙のルールが結構ある。ライブにしょっちゅう行かないとわかんねえよそれ、好きにのらせてくれよ、って結構ストレスがたまる。その振り以外は変に動くと浮くし、ちょっと窮屈だったりするんだけれど、今回は始まった瞬間からそれが全くなくて、リラックスして聴けた。   

 travisを知ったのはone tree hillっていうアメリカのドラマで登場人物の女の子が好きなバンドとして出てきたからだった。そのころ家にいても何にも楽しくなくて学校も楽しくなくて、日テレの深夜にやってる海外ドラマを録画して親が買い物でいない間にこっそり見るのが好きだった。5年前くらい?まさかtravisを生で見られる日が来るとは。travisはinvisible bandが理想って言っているように、あんまり派手じゃないから来日してもテレビの歌番組にはまず出ないし、フジロックには毎回来ているけれどフジロック一緒に行ってくれる友達がいないので。フジロックに一緒に行く友達がほしい。願望って口に出せば叶うっていうけれど本当かな。travisは20年バンドを続けていて、メンバーの改変も途中で活動休止もない。ツアーで四六時中メンバーといることでバンドの維持が困難だった時期もあったようだけれど、そこを乗り越えてベストな関係でバンドを続けている。その落ち着きというか、しなやかな強さというか、この人たちは好きなことに真剣に取り組んできたんだな、っていう輝きがもうすごかった。輝くって攻撃的な輝きじゃなくて、ホワンとした、後光みたいな、聖人の頭に描かれる輪とか、仏像が背負っている光の輪とか、そういうしるしとしての輝きのことです。我慢していたものがほどけてだばだば泣いてしまった。泣きながらリズムに乗る。ステージに手をのばす。メロディーを一緒に口ずさむ。周りも熱くなってステージに釘付けだからいくら号泣していようと誰も気にしない。みんなそれぞれがそれぞれに同じ空間にいる。ボーカルのFranがcloserを歌うとき、世の中はだんだんクレイジーになってきているように思えるけれど、皆がここにいて一緒に歌う、こういう小さいことが大切なんじゃないかな、みたいなことを言っていた。英語だったけれど何を言っているか分かって、ああ、もっと広い世界に行きたいと思った。たぶん、深いところに行けば言葉なんて関係なくてそこには人と人の向き合いがあるだけなんだと思う。そして、そういう関わり合いができなくなる環境にはなるべくならいたくないなあ、と思った。今はやむを得ずそういう関わりができなくなりがちな場所にいるけれど、自分にできる最善を尽くすことが今できることだなと思っている。先は、分からない、保留。

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小さくて広いところ

 

 バイトをしていて思うのは、どの空間に行っても、人の悪口を言う人はいるんだなあということ。そういう人って自分で勝手に自分のハードルを上げていて、それを人にも求めている。それ自分がつらいだけだからやめなよ、というか自分に完璧を求めてかつ他人にも完璧を求めるって、それいったい何を求めているんだろう、ならこんな小さい環境にいないでもっとそういう人たちが集まる一流企業とかに行けばいい。1に1かけたって永遠に桁は上がらない。風通しの悪い空間は嫌いで嫌いで、高校にいたときもちょっと偏差値が高いからって進学する大学の話ばかりが持ち上がるのがすごい嫌になった。多分そこで敵を高校にしないで何とかして気が合いそうな人を見つける努力をすればよかったんだけれど、高校が敵なら全生徒が敵みたいに思えてきちゃって、今思えば私の頭も狭かった。

 ぼくの地球を守ってという漫画の、コミックの余白の著者コメント欄に、「地面に足をつけて、両手をお空に広げて」っていう言葉がある。多分生き方としてはそれが理想で、高校時代の自分は地に足もついてないし腕組みしてじっとしていたんだな、と思う。まず地に足を、まずはそれからだ。じゃないとどんな場所に流されてしまうかわからない。同じ場所にじっとしていると、人に新しい何かとかストレスのはけ口を求めてしまうけど、人じゃなくてものに向かえたらいいのに。だから博士か職人になりたい。

 この間、グランフロント梅田でやっていた、「漫画、9番目の芸術」展を見てきた。グランフロント梅田という梅田駅からすぐの建物で、なんとなくショッピングモールだと思っていたんだけれど、入った瞬間空間の異質さにくらくらした。大丸とか高島屋みたいな百貨店でも入った瞬間に、金の動くエネルギーの圧力に疲れてしまうんだけれど、それとはまた別だった。ふんだんに金が動いている、かつ知がうごめいているというか、インテリジェンスの知じゃなくて、資本主義社会における知というか、あの空間はすごかった。建物の真ん中がホールになっていて、ちょっと休める椅子がいくつかおいてあるんだけれど、あまりにくらくらしたからそこにへたり込んでアーモンドチョコレートをむしゃむしゃむさぼった。しばらく放心状態でチョコを食べていて、ふと意識が現実に戻ったらすぐ後ろで企業の研修会みたいなのが始まっていて、大量のスーツ姿の学生たちがいた。絶対見られてた。2mくらいの距離だった。これだから、ほんとにこれだから。動物園の猿か、私は。なんかちょっとそれがあまりに決定的で、こういう空間に結局私は馴染めないのか、とつくづく思った。

 でそれからこのまま展覧会行く元気がなかったから、昼はワッフルとか食べていたんだけれど、建物のなかのカフェでカレーを食べた。そのカフェも8種野菜のサラダランチとかなんとかかんとかのジェノベーゼみたいな、つるっとしたキレイなメニューがあったんだけどそんなもん食べても滋養にはならないからカレーにした。生野菜って毎日毎日たくさん食べるものではないと思っている。胃が疲れる。精をつけたいと思っているときはやっぱり力強いものがいい。そしたら偶然にもそのカフェが大日本製紙(働いている本屋の親会社)が協力しているカフェだった。こんな洒落たこともしているんだ。ふーん。長机には各席にタブレットが設置されていて、いかにもビジネスマンなスーツ男性がマックをパチパチしていた。デザイナー系のnumeroだかfudgeだかそういう系の服の女の人とか、果ては長身アメリカ男性二人組とか、とにかくそんな23区のスタバからいい感じにそういう都会的でグローバルな人たちを厳選して寄せ集めました、とでもいいたげな空間だった。多分世の中を背負っているってこういうことなんだろう。常に進むこと。下を見ないこと。社会の流れに追いつきたいなら下層を相手にしてはいけない。エリート思想は大事。高校の同級で、東大に行ったのはそういう人たちだった。自然にエリートの位置に落ちつける人。でもそういう人たちは嫌いじゃない。ちょっとでもそこになじめない人は別の国立か医学部、落ちて私立に行ったようにみえる。むしろ苦手なのはそっちの人たちに多いけどその話は割愛。

 

 話を「漫画、9番目の芸術」展に戻す。すごい疲労感だったから見て回れるか不安だったけれど、入った瞬間ふわっと体が軽くなるくらい楽しい展覧会だった。そもそも9番目って言ってもじゃあ8番目まではなんなの、って話で、流石はルーヴル美術館の展覧会。そこはきちんと解説があった。

 

 

 

※フランスにおける芸術の序列。第1から8までは順に「建築」「彫刻」「絵画」「音楽」「文学(詩)」「演劇」「映画」「メディア芸術」とされる(諸説あり)。   

公式HPより。

 フランスでは漫画は日本のようにコミックで安いものではなくて、 バンド・デシネといって、写真集みたいな大きさと値段のアートブック的なものとして売られているらしい。だからエンターテイメントよりも文学色が強くて、それはそれで見ていてかなり面白かった。主にフランスと日本人の作家の、ルーヴル美術館をテーマにした特別漫画の一部が展示されていて、内装も漫画に合わせてデザインが変わっていてわくわくした。フランスの作家の漫画は、絵と文学の融合というか、絵のもつ脳にダイレクトに訴えかける抽象的な強さと、文学が書く重々しくも避けようがない人間の業を上手く一つにしていて、新鮮ですごいよかった。映画に近いけれど映画とはやっぱり違う。やっぱり漫画は漫画で、すぐ近くにある感じがする。音楽と絵と違って文学だけは人を選ぶというか門が狭いというか、閉鎖的で万人受けはしないところがあるけれど、漫画は文学性を持ちつつも大衆に開かれていていい。芸術は大衆に開かれていなければならないと思う。時々これは昏さを抱えすぎてはいませんか、みたいな作家もいて、もはや漫画ではなくて変な絵で、なんか怖くなってそこは素通りした。これは確かにアートブックとして読む重さだ。気に行った作家の漫画を全部通して読んでみたくなって、売店でそれも売ってたけれど、フランス語全然わからないからやめた。美術館の売店で気にいった絵の絵ハガキを買うのがすごく好きなんだけれど、この展覧会のグッズ製作者の絵ハガキのセンスは悪くてあんまりいいやつ買えなかった。まだ既存の作家の絵が多いから権利もろもろ難しくて作るのが難しいのかもしれないけど、なんでここのシーン絵ハガキにしたの?っていうのが多かった。ちょっと残念。

 

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 三月いっぱいでバイトを辞めると社員に言った。言った瞬間一瞬目を見開いていたけれど、2秒ぐらい沈黙したあと「分かった。」と言われた。理由は聞こうとしてこなくて、さすが分別をわきまえているなあと思った。あまりにスっと話が流れていきそうだからむしろこっちから説明してしまった。あまり深く突っ込んでは説明したくないから理由の概要だけふんわり話した。宇多田ヒカルのある歌の歌詞に、「言葉に全部は託せなくても 声に出せば少しは必ず伝わるはず」っていうのがあって、ほんとにまさにそれで、形だけでも言葉にしないと好き勝手に判断されてしまうからなあ。こわこわ。なんでも言った方がいいんだな、伝えることを億してはいけないな、言わなきゃわかってもらえる可能性をつぶしてしまうもんな。

 そしたら一緒に働いていた24歳の女の子も、大学を退学して学費を稼いでいるところだっていうことが判明した。今年の夏から復学届を出して大学に戻ろうと思っているらしい。私の働いている本屋にはもう一人私と同じ大学で休学中の23だか24歳の女の子がいる。その子はレンタルビデオ店の夜勤と掛け持ちして働いている。まさかコスモから出てまでこんなコスモ的な人達、しかも女の子、に会うとは思っていなかった。類が友を呼んでいる。いや正確には友じゃないから何かこう類が類を呼んだにすぎないけれど。一年近く一緒に働いていて何にも知らなかった。傷つきたくなくて常に周りを警戒して生きているところがあるから、たぶんそのせいでつながる縁も繋げず生きている。もともとなんでそういうのがあるのかっていうとたぶんなんか理由は分かっていて、これはまた今度書く。今日は風呂がくめたので風呂に入って寝る。

まだ現われていない階層があるたぶん

 昨日は七時半ごろかな、バイトから帰ってきて昨日の余り物の回鍋肉と白いご飯を食べて、そのあとまだお腹がすいていたので甘いものをバクバクっと食べた。そのあと急激な眠気に襲われて、八時半ごろ着替えも歯磨きもお風呂もほっぽって布団にもぐりこんだ。それからはいったん11時半ごろ目が覚めて、喉がぱっさぱさだったので布団脇に転がっていたタンブラーのコーン茶を飲んで電気を消して、次に起きたのは朝の五時半だった。

 やっぱり私よく寝ないと駄目みたいだ。睡眠不足が続くと脳が妙に糖分(特にチョコ)をくれくれうるさいし、体はねむいねむいってオギャオギャうるさい。このうるささは、ヨッシーアイランドで赤ちゃんのマリオがヨッシーから離れて浮遊しているときの、

「アアアァ~ン!!!!!!!!アアアア~ン!!!!!!!!!!!!!」

って叫び声にそっくりでとても耐えがたい。つまりは無理をするなっていうことなんだろうけれど、生活は毎日続くし、死ぬまで生きなければいけないので、どうしたって無理が続く日は出てくる。仕方ないよね、分かってほしい。こんな感じで自分の中にインナーチャイルドを抱えて生きているので、誰かと付き合うとか、ましてや自分の子供を持つとか、手に余る。そもそも想像に余る。いや千手観音みたいに手がいくつあったって体は一つなので無理です。ひいいいいいいいい。世の中の人間は付き合うとか仕事とかそして結婚さらに出産とこれを順当に成長に合わせて難なくクリアしているわけで、人生常にスーパーサイヤ人状態かよ・・・と恐れ入ってしまう。

 今働いている本屋には子育てしながら17時まで働いている女の社員さんがいる。まあここまではありふれていると思うんだけれど、もう長年勤めていて(たぶん15年以上だと思う)出版社の営業さんたちからもこのジャンルの本担当といえば、○○さんって信頼の定位置にいる。本屋の店員なんて長年勤めてやっと一人前、って感じてバイトなんて雑用以外役に立たないから、長年のベテラン書店員ってすごく大切なのだ。(一見さんお断り、よろしく一年さんお断り、みたいな。京都にはそういう職場がたくさんあると思う。神社もそう感じた。)だけど、定時上がりだから、夜までいて店の管理業務ができないから、管理職にはなれない。それってひどくない?あ、子育てする女性の社会進出が難しいって、こういうことか・・・。働けない、っていうことではなくて、どんなに頑張り続けてもある一定以上から上へは行けない、給料は上がらない、っていうことなのか。

 このあいだ管理部の人がきて、人件費削減の話になって、昼過ぎで上がる主婦の人を置いとくのはどうなの??って話しているのが聞こえた。店長が、「長年いてくれているし、この人に会いに来てくれるお客さんもいるから」ってきちんと突き返していて、あっ素敵だなあって思った。店長はめちゃくちゃぶっきらぼうなんだけれど、地域の人とか長年の付き合いの人をかなり大切にしている。だから他の書店にはない、直接個人と取引して仕入れている商品が割とある。お客さんにはそういう書籍目当ての人が時々いる。ただ書店自体が大手だから、それを目当てとしていないお客さんもたくさん来て、そっちの需要というか欲求にはこたえられていないとは思う。数でいえばそういうふらっとくるお客さんが9割だから、やっぱりカフェ併設型の書店とか、独立店舗じゃない店には負ける。ニッチな欲求だけにこたえていくには店の規模がでかすぎる。だから人件費の削減に行きつくんだろうけれど、そうすると残った社員の仕事が増えて、売り場作りとか店頭接客に時間がさけないからどうしても店の雰囲気自体がパッとしなくなる。そうすると客はてきめんに離れる。こういう店舗にどばっと資本を注げるほど会社は余裕がない。

 そもそも上に書いた管理部の人が、ブックカバーを置いたらどうかみたいな提案をしていて、アホなんじゃないかと思った。現場を知っているつもりで実は全く見えていない。管理職の手腕の力のなさが下につくものに及ぼす影響の怖さを感じた。いやいや彼らも若かりし頃は現場でバンバン働いていたんだろうけれど、本って情報の塊だから、常に今の店の様子を知っていないと役に立たない。立地によって客層も買う人がどういう種類の本をよく買うのか全く違うだろうし。客に何かを買わせることしか考えていなくて、目新しいものを置いて一時的に売り上げを伸ばすことと、お客さんが満足して次もまた来てくれることは違う。これはもう全く異なる。ネット購入と、書店の違いはもはやそこに人がいるかどうかしかないんじゃないかと思う。正直本の量と、流通の速さは圧倒的にネットのが客の要望に応えている。接客はもちろん、ネットのサジェスチョンと人が作り出す売り場は違う。店員が売り場づくりにさける時間を作ってあげるのが管理部の仕事だと思うんだけどなあ。

ベたっと染みついて落ちない

 一人でいると煮詰まってしまう。

 

 最近は割と調子が良くて、そういう時は高校のときなんでもっと上手くやれなかったんだろうとよく思う。高校は本当にうまくいかなかった。部活だけはすごく楽しかったけれど、それも結局恋愛のもつれで行けなくなってしまった。部活すごく好きだったのになあ。部員が私を含めて6人の小さいコミュニティだったし、穏やかに談笑しておかし食べて、たまにまじめに活動して発表会行って、って。でも、あ、この人私のこと好きなのかな、でも私はそのつもりないからそう意思表示しようと思っているうちに、ぐっと距離を詰められた。パニックになった。やめてくれ。

 なんとなく、男性は、この子俺に優しい、をこの子俺に好意があるんじゃないか、とかこの子なら押せば落とせるんじゃないか、に繋げがちだということは分かってきた。だからよく男性は女性に「思わせぶりなことはしないでほしい」って言う。勘違いするのも押してみるのも別にいいと思うんだけど、そこでどういう行動をとるのかは完全にあなたの裁量なので考えてください。そこでグイッと寄ってしまう男性は暴力に等しいから本当に。べたべた触るとか、してないだろ。分かれよ。別に今なら、ポーンって打ち返すことはできなくても、ファウルくらいにはできます。高校時代は暴投が来たらもれなく当たっていましたので、ケガをしました。けっこう痛かった。男女関係じゃなくても、友達の間でも、そこで間合いを測れる人はかなり好きです。

 こっちがガツンとくらった思い出は目立ったやつだとこれくらいで、むしろ私が友達にやらかしてしまったことのほうが圧倒的に多いので、高校の思い出は辛い。苛立ちとか置かれた環境に対する不満が友達に向いてしまって、時々ぎゅっと凶悪になってしまうことがあった。まあ今もあるんですけれど。そういう人を傷つけたツケが自分の一番大切だったものに跳ね返ってきたのかもしれない。一人一人に謝りたいけれど、そういうのって謝って楽になるのは私で、相手がそのとき傷ついたり迷惑を受けたということは相手にずっと残るんだろうな。いやでもそれでも謝ることに意味があるんだろうな、云々と考えてしまう、三年も経つのにね。

顔が焼けるのは嫌だなあ

 2、3日前、燃えて死ぬ夢を見た。森の中にあるバーベキュー場のような場所にいた。そこは小学校にあった小さな森の、飯盒炊爨をやる場所に似ていた。私はそこで木の枝を集めて火を燃やしていた。

 そうしたらいつの間にか腕の下あたりから服に火がついていた。あ、やばい、消さなきゃ、えっと、水はどこだろうと考えている一瞬のうちに、火はなめるように燃え広がって顔の左半面を覆っていた。気づけば体を通って足元まで火に包まれているのを感じた。目の前の炎を通して母親が悲鳴を上げているのを見た。顔が引きつっている。あ、私もう死ぬのかなと思った。そっかあ、すごい死に方だなあ、火あぶりかよ、でもお母さんも叫ぶなら火を消そうとしてほしいな、そこで突っ立ってないでさ、ってぼんやり考えた。なぜか一瞬で死を受け入れていた。火あぶりって、自分がパチパチ燃えてじわじわ炭になりながら死んでいくのを感じながら死ななきゃいけないから、痛くて嫌だなあ、涙が出てきちゃうじゃん。どうせ死ぬなら自分で気づかないうちにスっと逝きたいじゃん。そんなことを考えていたらなぜか火が消えていた。

 何となく顔の半分が焼けてただれているのを感じたけど、怖くて触れなかった。前に立つ母が口をパクパクさせながら困惑して私を見ている。私の見た目はどうやらすごいことになってしまっているらしい。一回死を受け入れたから、助かって生の世界に戻されたことが逆に、いや、もういいですって、なんなんですかこれ、いいです私死にますから、って感じでほとんど嬉しさを感じなかった。だいたい私明らかに半身燃えているじゃん、顔だって、この赤黒く焼けただれた顔で生きていけっていうわけ?左足だってこれたぶん半分炭じゃん、歩けるのかな。いま私左半身ゾンビみたいになっているんじゃない?もうこれ女の人じゃなくてモンスターのほうが近いんじゃないんだろうか。いやいやでも九死に一生を得ていややっぱり死にますなんて言えないから、当座は生きていくことになるんだろうなこれで。いつまだ生きていられるのか分からないけれど。呆然としていたらやはり母も呆然としていて、生きていてよかったって言って涙ながらに私を抱きしめるなんてことはもちろんなく、眉をひそめて、まるで汚らわしいものを見るような目でこちらを見ているのだった。

 たぶんここで夢は終わった。

 この夢、見終わった後に目が覚めて、布団の中でうわ嫌な夢見たなあ、なんだよって思った。チコリータのぬいぐるみを抱きしめて、その頭に鼻をうずめてにおいを嗅いで、じっとしていたらいつの間にかまた寝ていた。朝起きたらその夢のことはすっかり忘れていた。しばらくして、あれ、そういえば私この間死んだな、なんだっけ、って思い出した。

 何かをしようとするとき、そこには壮絶な死を伴う。自分が変わろうとするとき、それは気分の問題だけじゃなくて、それは同時に以前の自分が死ぬことでもある。これは河合隼雄の本を読むとよく出てきて、ああこういうことかと思った。神話だと死んだり生き返ったりぽんぽんする気がするけれど、それは新しい生には必ず死が伴うという人間の感覚を反映したものなのかなと思った。いやたぶんこれはものすごい浅い考えだけれど。だから決して私が病んでいるとか身体に火をつけて死にたいと思っているとかそういうわけではありません。あしからず。

一が二になる

 不思議な縁がよくある。縁自体が不思議なものだから、不思議な縁という言い方はおかしいのかもしれない。頭痛が痛いみたいな。明らかにこれは縁としか言いようのない巡り合わせがよくある。そういうものの影響を強く受けながら生きていくタイプの人間なのかもしれない。 

 あまりこういうことを、運命だとか神様がすべてを見ていてくれているとか人が歩む道は初めから定められているとかと表現するのは好きじゃない。定義するより個々の事情を独立して語るべきだと思う。ユングが心理学者としてはあまり一般に受け入れられていないのはこういうことを心理学に持ち込んでしまったからで、でもユング本人はそれをわざわざ心理分析に持ち込んだのだと思う。心理学はあくまで科学として扱われる。人文学的な視点から見たら疑問は起きないことでも、それを心理学の場で適用しようとしたら、たちまち弾かれる。そこをうまく扱える人がいないから心理学はまだまだ興味があるけれど心理学の場には限界を感じてしまった。科学って実証で、人間も実証で、それでいいと思うんだけれど。人間の治療を科学的に実証しようとしたらMRIとか脳の血液量が必要になってきて、そうしたら投薬するしかなくない?

 

 本屋のスピリチュアルや精神世界のコーナーには、そういうものに囚われて明らかに自分で考えることをやめてしまったであろう人がよくいる。大体服装が自分の年齢に不相応だ。子供のお古を着ているのかと疑うような薄汚れたパステルの色の服を着ている。フリルとかリボンとかがついている。あと周りが見えていない。使い古したトートバッグとビニールの袋とかを床に無造作に置いたり、後ろを人が通る狭い道なのに座り込んでカードを広げたりする。占いのカードの見本はよくなくなる。単価が高くて、三千円くらいするから盗まれる。

 あと人気なのは、災害はすべてアメリカが仕組んでいる!とか、宇宙に聞いた予言!とかそういう都市伝説系の本で、これは50代60代の人が本当によく読む。え、あなた、長い間生きてきてたどり着いた結論がそれなんですか、と思うと怖くなる。見た目は穏やかできちんと働いていそうなスーツのおじさまが嫌韓系の本を大量に買っていくこともある。時々官能小説を一緒に買っていくこともある。会話したことがあるけれど、穏やかで優しい人だった。変態はいる、と思う。本屋は棚によって人の種類が変わるから面白い。他にもどの場所にどんな人がいるかの話はあるけれど、永遠続くからやめる。

 毎日担当の部類の本でも20冊以上は新刊が来る。そして古い本は返品される。思想って永久不変かと思っていたけど、ゴミになるんだな。一冊の本にはその人が人生の時間を費やしてできている。時間を費やすということは命を削ることで、だから本は命を分けたものであると思うんだけど、それすら売れなければ世から消える。せつない。ある人が命を削って書いた本を他の誰かが自分の時間をかけて読む。不思議なやり取りだ。