ベたっと染みついて落ちない

 一人でいると煮詰まってしまう。

 

 最近は割と調子が良くて、そういう時は高校のときなんでもっと上手くやれなかったんだろうとよく思う。高校は本当にうまくいかなかった。部活だけはすごく楽しかったけれど、それも結局恋愛のもつれで行けなくなってしまった。部活すごく好きだったのになあ。部員が私を含めて6人の小さいコミュニティだったし、穏やかに談笑しておかし食べて、たまにまじめに活動して発表会行って、って。でも、あ、この人私のこと好きなのかな、でも私はそのつもりないからそう意思表示しようと思っているうちに、ぐっと距離を詰められた。パニックになった。やめてくれ。

 なんとなく、男性は、この子俺に優しい、をこの子俺に好意があるんじゃないか、とかこの子なら押せば落とせるんじゃないか、に繋げがちだということは分かってきた。だからよく男性は女性に「思わせぶりなことはしないでほしい」って言う。勘違いするのも押してみるのも別にいいと思うんだけど、そこでどういう行動をとるのかは完全にあなたの裁量なので考えてください。そこでグイッと寄ってしまう男性は暴力に等しいから本当に。べたべた触るとか、してないだろ。分かれよ。別に今なら、ポーンって打ち返すことはできなくても、ファウルくらいにはできます。高校時代は暴投が来たらもれなく当たっていましたので、ケガをしました。けっこう痛かった。男女関係じゃなくても、友達の間でも、そこで間合いを測れる人はかなり好きです。

 こっちがガツンとくらった思い出は目立ったやつだとこれくらいで、むしろ私が友達にやらかしてしまったことのほうが圧倒的に多いので、高校の思い出は辛い。苛立ちとか置かれた環境に対する不満が友達に向いてしまって、時々ぎゅっと凶悪になってしまうことがあった。まあ今もあるんですけれど。そういう人を傷つけたツケが自分の一番大切だったものに跳ね返ってきたのかもしれない。一人一人に謝りたいけれど、そういうのって謝って楽になるのは私で、相手がそのとき傷ついたり迷惑を受けたということは相手にずっと残るんだろうな。いやでもそれでも謝ることに意味があるんだろうな、云々と考えてしまう、三年も経つのにね。

顔が焼けるのは嫌だなあ

 2、3日前、燃えて死ぬ夢を見た。森の中にあるバーベキュー場のような場所にいた。そこは小学校にあった小さな森の、飯盒炊爨をやる場所に似ていた。私はそこで木の枝を集めて火を燃やしていた。

 そうしたらいつの間にか腕の下あたりから服に火がついていた。あ、やばい、消さなきゃ、えっと、水はどこだろうと考えている一瞬のうちに、火はなめるように燃え広がって顔の左半面を覆っていた。気づけば体を通って足元まで火に包まれているのを感じた。目の前の炎を通して母親が悲鳴を上げているのを見た。顔が引きつっている。あ、私もう死ぬのかなと思った。そっかあ、すごい死に方だなあ、火あぶりかよ、でもお母さんも叫ぶなら火を消そうとしてほしいな、そこで突っ立ってないでさ、ってぼんやり考えた。なぜか一瞬で死を受け入れていた。火あぶりって、自分がパチパチ燃えてじわじわ炭になりながら死んでいくのを感じながら死ななきゃいけないから、痛くて嫌だなあ、涙が出てきちゃうじゃん。どうせ死ぬなら自分で気づかないうちにスっと逝きたいじゃん。そんなことを考えていたらなぜか火が消えていた。

 何となく顔の半分が焼けてただれているのを感じたけど、怖くて触れなかった。前に立つ母が口をパクパクさせながら困惑して私を見ている。私の見た目はどうやらすごいことになってしまっているらしい。一回死を受け入れたから、助かって生の世界に戻されたことが逆に、いや、もういいですって、なんなんですかこれ、いいです私死にますから、って感じでほとんど嬉しさを感じなかった。だいたい私明らかに半身燃えているじゃん、顔だって、この赤黒く焼けただれた顔で生きていけっていうわけ?左足だってこれたぶん半分炭じゃん、歩けるのかな。いま私左半身ゾンビみたいになっているんじゃない?もうこれ女の人じゃなくてモンスターのほうが近いんじゃないんだろうか。いやいやでも九死に一生を得ていややっぱり死にますなんて言えないから、当座は生きていくことになるんだろうなこれで。いつまだ生きていられるのか分からないけれど。呆然としていたらやはり母も呆然としていて、生きていてよかったって言って涙ながらに私を抱きしめるなんてことはもちろんなく、眉をひそめて、まるで汚らわしいものを見るような目でこちらを見ているのだった。

 たぶんここで夢は終わった。

 この夢、見終わった後に目が覚めて、布団の中でうわ嫌な夢見たなあ、なんだよって思った。チコリータのぬいぐるみを抱きしめて、その頭に鼻をうずめてにおいを嗅いで、じっとしていたらいつの間にかまた寝ていた。朝起きたらその夢のことはすっかり忘れていた。しばらくして、あれ、そういえば私この間死んだな、なんだっけ、って思い出した。

 何かをしようとするとき、そこには壮絶な死を伴う。自分が変わろうとするとき、それは気分の問題だけじゃなくて、それは同時に以前の自分が死ぬことでもある。これは河合隼雄の本を読むとよく出てきて、ああこういうことかと思った。神話だと死んだり生き返ったりぽんぽんする気がするけれど、それは新しい生には必ず死が伴うという人間の感覚を反映したものなのかなと思った。いやたぶんこれはものすごい浅い考えだけれど。だから決して私が病んでいるとか身体に火をつけて死にたいと思っているとかそういうわけではありません。あしからず。

一が二になる

 不思議な縁がよくある。縁自体が不思議なものだから、不思議な縁という言い方はおかしいのかもしれない。頭痛が痛いみたいな。明らかにこれは縁としか言いようのない巡り合わせがよくある。そういうものの影響を強く受けながら生きていくタイプの人間なのかもしれない。 

 あまりこういうことを、運命だとか神様がすべてを見ていてくれているとか人が歩む道は初めから定められているとかと表現するのは好きじゃない。定義するより個々の事情を独立して語るべきだと思う。ユングが心理学者としてはあまり一般に受け入れられていないのはこういうことを心理学に持ち込んでしまったからで、でもユング本人はそれをわざわざ心理分析に持ち込んだのだと思う。心理学はあくまで科学として扱われる。人文学的な視点から見たら疑問は起きないことでも、それを心理学の場で適用しようとしたら、たちまち弾かれる。そこをうまく扱える人がいないから心理学はまだまだ興味があるけれど心理学の場には限界を感じてしまった。科学って実証で、人間も実証で、それでいいと思うんだけれど。人間の治療を科学的に実証しようとしたらMRIとか脳の血液量が必要になってきて、そうしたら投薬するしかなくない?

 

 本屋のスピリチュアルや精神世界のコーナーには、そういうものに囚われて明らかに自分で考えることをやめてしまったであろう人がよくいる。大体服装が自分の年齢に不相応だ。子供のお古を着ているのかと疑うような薄汚れたパステルの色の服を着ている。フリルとかリボンとかがついている。あと周りが見えていない。使い古したトートバッグとビニールの袋とかを床に無造作に置いたり、後ろを人が通る狭い道なのに座り込んでカードを広げたりする。占いのカードの見本はよくなくなる。単価が高くて、三千円くらいするから盗まれる。

 あと人気なのは、災害はすべてアメリカが仕組んでいる!とか、宇宙に聞いた予言!とかそういう都市伝説系の本で、これは50代60代の人が本当によく読む。え、あなた、長い間生きてきてたどり着いた結論がそれなんですか、と思うと怖くなる。見た目は穏やかできちんと働いていそうなスーツのおじさまが嫌韓系の本を大量に買っていくこともある。時々官能小説を一緒に買っていくこともある。会話したことがあるけれど、穏やかで優しい人だった。変態はいる、と思う。本屋は棚によって人の種類が変わるから面白い。他にもどの場所にどんな人がいるかの話はあるけれど、永遠続くからやめる。

 毎日担当の部類の本でも20冊以上は新刊が来る。そして古い本は返品される。思想って永久不変かと思っていたけど、ゴミになるんだな。一冊の本にはその人が人生の時間を費やしてできている。時間を費やすということは命を削ることで、だから本は命を分けたものであると思うんだけど、それすら売れなければ世から消える。せつない。ある人が命を削って書いた本を他の誰かが自分の時間をかけて読む。不思議なやり取りだ。

 

 

あのここんなこなのよ

 2年ぶりか3年ぶりかに、生まれてから17歳まで住んだ家に行った。帰ったといってもいいけれど、部屋から生活感が消え失せていて、ちょっとビジネスホテルのような気がした。今はそこには父しか住んでいなくて、父はそこを必要最低限の生活をこなすだけの場所として使っているようだった。睡眠、トイレ、シャワー。洗濯。湯船にはめったに浸からなくて、年に1、2回らしい。

 私の個人的スペースといえば勉強机とその近辺、だったのだけれど、私物はほとんど処分されていた。いくつかの本と問題集だけが、机の本棚に静かにしまわれていた。つらい時を一緒に乗り切ってきた本だから、持って帰ってもよかったのだけれど、そのままにしておいた。本が私の身代わりとなって静かに死んでいた。 

 マンションというよりも集合住宅といった方がふさわしいこの9階建ての建物の505号室も、3月には完全に出ていくらしい。さよなら、私の家。家族はそれぞれ生きていても、帰る家庭はなくなってしまう。離婚なんていまや珍しくもなんともないけれど、それで離婚が人に及ぼす影響が変わるわけではないのだと思った。孤独だってそうだ。いくらぼっちが恥ずかしくないという風潮ができても、ひとりの寂しさは変わらない。

 階段の踊り場で放尿する人がいるらしい。人々の目が防犯になりますという張り紙がエレベーターに貼られていた。そんな奴見たくない。見られてやめるんだったら集合住宅の階段で排泄するわけがない。一つ上の階から飛び降り自殺した人がいた。やってきた救急車に、母親やお隣さんたちが高揚していたのを覚えている。昔まつうらという、たぶん二十歳前後の変質者がいて、他人の家の玄関の前にうんこをしたり、小さい男の子にパンツみせてと声をかけたりしていた。よく猫が住宅前の道路で車にはねられて、歩道に死体が寄せられていた。視界に入れたら呪われそうだから、見たい気持ちを我慢して息を止めて通り過ぎた。住宅の目の前には深くて大きい川が流れていて、たぶんそれも地域のじっとりした雰囲気に影響していた。 

 柏に住んでいた時も、関西に来てからもこういう経験をしたことはない。まったく、難易度低めのスラム街みたいなところに住んでいたんだな。

 

 

  

 

あなたの血はどんな色

 キリンジの歌に、地を這うものに翼はいらぬという曲があって、そうだなあと思っていたら、「空高く飛ぼうとしない精神は地べたを這いつくばる人生を歩むだろう」っていう言葉を残した政治家もいたらしい。世の中にはいろんな考え方がある。その話を人にしたら、歩むも飛ぶも風向き次第と返された。実際風向きに合わせて自分の動きを変えられる人って少ないんじゃないかと思う。地を這うものは、地を這ううちに地を這う動きしかできなくなる。空を飛ぶものは地に足をつけて歩むことは苦しい。自分の置かれた場所に適応してそれが定着するから、自由は難しい。 

 

 ちょっと前に、前世が見える女の人がいる喫茶店に行ってきた。すっぴんの佐伯チズみたいな見た目のおばさまに見てもらったら、私の前世は古い順に、

  •  スイスの酪農家(女)
  •  中国の寺子屋の先生(男)
  •  ベルギーの町役人(男)

 だったらしい。働き者で一所でこつこつ働くタイプ。前世前々世が男だから女子大は向かないし、男性を見る目が厳しいから恋愛が難しいのよと言われた。あらゆる場所を転々としているしふらっと女子大に来てしまった。なんで自分の性質に逆らうことを求めてそれを実行してしまうのかわからない。血に逆らっているのかもしれない。

 私の家系で会社勤めしてるのは父親しか知らないし、父親は会社で働いているだけで偉いよね、って感じの人だ。山口出身で、福岡と東京と名古屋の大学を受けて、試験を受けきったのが名古屋の大学だけだったからそこに進学した。そこから就職して、職を失って、運よく出身大学から考えると不相応な企業に再就職した。私が8歳くらいの頃から地方転勤を何回もして、三年前茨城に戻ってきた。そもそもなんで茨城に就職したのか謎である。わからない。

 母は茨城県の真ん中あたりの海沿いの町で生まれた。中学からタバコを吸ったりパーマをかけたり拒食症になって死にかけたり、それから高校を中退して引きこもりになって過食症になって自分の部屋にゲロを溜めたりしていたらしい。結局19から27までは引きこもっていた。母は50半ばぐらいで、その年代の頃だと、社会的な扱いは引きこもりというより精神異常者なんじゃないかと思う。不登校のパイオニア的血筋。明らかに血が良くない。

 大洗町には磁場があって、地縛霊のドンみたいなやつがそこに住んで人の負のエネルギーを主食にして生きているのかもしれない。パッとしないな。

 血って強い力を持っているから、昔の人は生まれに重きを置いたんじゃないだろうか。そういうのって消えないんじゃないだろうか。見えなくなったけどきちんと存在していると思っている。

 

 

 

 

 

201701050017

 特にここ一年は脳の思考回路の一部をパチッと切ってきた。

 考えないようにすることは簡単で、でも大抵の物事がそうであるように、一つの出来事が予想だにしない結果をいくつも連れてくる。本が読めなくなった、物が書けなくなった、理系科目の問題集なんて開くだけで頭に鈍痛がする。絵が好きになった、音楽が必要になった。 

 ナディアというイギリスの天才的に絵が上手かった少女は、8歳になって言語を教えられ始めると、その後全く絵が描けなくなったらしい。

 多重人格者の中には、個々の人格が独立しているときは、それぞれの個性が際立っていることがある。人格Aは数学が飛びぬけてできる、人格Bは絵が上手い、人格Cはかなりよくしゃべる…といったように。しかし人格が一つに統合するにつれ、その特性が消えてしまうらしい。面白いね。人から聞いた話だから嘘か本当かわからないけど。 

 幽霊の見える見えないってこういうことと関係があるんじゃないかと思う。

 post-truthって、人々が事実に裏づけられた真実より、自分が信じたいもの信じることの政治的用語みたいなんだけど、すごく面白い。事実が事実であったところでそれはほんの一部だということ。科学的な実証や予測はデータとしては事実だけど、現実はもっともっとあらゆる物事が出たり入ったり飛び込んだり消えたりしている。ならば自分が信じたい物事を信じるしかないではないか。ただそれを政治に持ち込むのは、というかそれが政治まで侵食してきたからこうして用語になるんだろうけど。

 神や仏や迷信や伝説や血筋が力をなくした後で、宗教でも科学でもない、それに代わる新しい何かを探している。

 科学と宗教の融合、科学と宗教の融合。それを成し遂げたとき、人間は新しい局面を迎えるのだろうか。それとも人間の肉体はそれに耐えられずに死ぬのだろうか。あるいはそれを拒否するのだろうか。