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老教授アヤムー

 普段よほど気を張り詰めているのか、たまにの休みになるとボーーーっとして結局何もしない。だいたいゲーム実況を見ているか、それかラジオを聴いている。部屋の掃除気なんてもうすぐ一か月くらいかけてない。床に物が散らかりすぎていて、机の上ももので埋まっていて、まず物をどかさなきゃいけないのが面倒。とりあえず本棚を注文したけれど、届くのが来週だし。火災保険の更新とか区役所に提出する書類とかなんやかんやたまっている。あちゃー。収納がないのにものが増えすぎた。服はだいぶ捨てたんだけどなあ。本も読めていない。うーーーん。

 で、書きたいものが結構溜まっている。

 ・本屋に来た私の在籍している大学の教授

 ・ズルするとなぜかすぐバレて怒られる

 ・心が開けない

 ・やりたいことがない

 ・いろなん人とうまく付き合える人がいるけれど私はそうじゃない、友達の友達なら別

 ・ここのところずっとすごい近距離で飛んでいる鳥をよく見る、鳩カラストンビサギみたいなの、キジバトの鳴き声

 

 本屋に来た大学の教授の話。

 フロアで仕事をしていたらカートを引いた70は絶対に超えている小柄なおじいさんが話しかけてきて、選んだ本を大学に請求書を送る扱いにしてほしいとお願いをしてきた。私がすぐその手続きの書類の記入に向かおうとしたら、「あっそんなに急がなくてかまいません、今しているお仕事が終わってからでいいですよ」ってとても物腰柔らかに言われた。今までそんなこと言われたことがなかったのですごくびっくりした。

 

 いろいろな大学の教授がよく本を選びに来るけれど、だいたい結構態度が悪い。偉そうだったり、ちょっと時間がかかると面倒くさそうにしたり、無茶な要求をしてきたり、閉店間際に大量の本をレジに持ってきたりする。ただその人は、最初から最後まで穏やかで、かつ抜け目がなかった。きちんと名刺を見せてきて、「○○と申します。」と名乗ってきたし、同じ本が2冊あるのを、「同じ本が2冊ありますが問題ありません。」って断ってきた。しかも、名刺を見たら私の在籍している大学の教授で、この大学にこんな教授がいたのかと思った。立ち姿もブレがないというか、すっくとしていて、明らかにただものじゃなかった。持ってきた本が歴史に関係する本ばかりだったので、同僚に史学科の子がいるから、もしかしたらと思ってその人の名前を知っているか聞いてみた。

 

 そうしたらその子の顔がぱあっと輝いて、「アーーーー知ってます!仏ですよ~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!」と返ってきた。その子の話によると、その老教授は、皇族の教育係をしてたことがあるくらい歴のあるお方で、高齢だったのは、定年してから特別に教授として呼ばれたからだとか。主に歴史資料の伝来とか、その管理の仕方とか、文化遺産の研究などをしているらしい。ほとんど著作は書いていないけれど、研究所の所長も務めているから、見えないところで地道に研究を積み重ねてきた人なのだろう。世の中にはこんな人も、こんな生き方もあるのか。毎回授業のときには、過去の授業のプリントのストックを全部持ってきて前に並べて、プリントをもらいそびれた人にもきちんといきわたるようにしているらしい。みんなのアイドルですよ~~~~~とその子は言っていた。

 こういう芯からきっちりとした上品な人に、完璧に育ちがいい人にごくまれに出会う。そうすると、普通にしていても自分の話し方とか身振りとかがはっきり粗野に感じられてドキッとする。世の中には越えられない壁がある。壁というより元素の違いに似て、もうこれ以上変質しようがない限界が見える。越えられるものと、変わりようがないもの、その見極めができるようになるのも大人になるということなんだろう。変えられないものを無理に動かそうとしても心身がすり減るだけだけれど、でも変えられないと思っていたことでも、ジタバタしていたら、いつの間にかスっと壁が消えて向こうが見えているいることもある。うーーーーーん、難しいな。

朝から怒鳴らなくたっていいじゃないか

 とりあえず今日をやり切ってもまた明日が来る。しんどい。 

二十歳の女の子で、花も盛りの盛りなのに、なんだこのありさまは。これは絶対に正しくない。二十歳の女の子はみな一様に幸せであるべきだ。美しくないし正しくない。楽しくないのはなんでだろう。不本意な場所にいて不本意なことをしているからだ。

 兄が高校に入りたての時、毎朝吐きながら登校していた。吐く場所は家の洗面所だったり、学校に行くまでの徒歩十分の道すがらだったりした。兄は辞めたい辞めたいって言いながら、ゲロ吐きながらも登校し続けた。私はそれを何も言えずにじっと見ていた。掴んだ場所にしがみついてがんばるのがとりあえずのまともな人間なのかもしれない。何がそんなにつらかったのか兄は話さなかったから分からない。でも次第に学校にも慣れて辞めたいとも言わなくなって、代わりに友達の話や授業中の面白い出来事を話すようになった。お見事。でも兄は明らかに高校で変わった。大人になったけど、優しくなくなった。昔みたいに一緒にゲームではしゃいだりできなくなった。ちょっと変な面が目立つようになった。何が良くて何が悪いのかは、外から見るだけじゃ分からない、と思う。 

 というのも、今日泣きながらバイト先に向かう途中、ふと今の自分が高校時代の兄と似た状況にあると気づいたから。私もこうして必死に踏ん張っているうちに、心のどこかが固くなっちゃって、変わっていくのだろうか。やだなあ。大人ってなんでみんなしんどそうな顔をしてるかっていうと、あれは実際毎日がしんどいからなんだよなあ。あー、私心身の性質でいうと年収1000万くらいの医者の娘で金に不自由しなくて、実家暮らしの箱入り娘っていう感じだから、過重な負荷は本当に身にこたえる。根はわがまま娘なんだよなあ。今の身辺の80%が気に食わないものでできていて、本当は80%が好きなものでないとやっていけない。病気になる。

 自分の気持ちは誰にもわからないと思っている。でもそもそも伝えようとしていない。本当の気持ちを隠して生きていて、それが全てを妨げている気がするな。特に人間関係。もっと心を開けたらいいんだけど。こんな風にどうしようもない夜に、迷わず電話できるような、そんな友達がいてくれたらいいのに。ただ声が聞きたいだけなのに。中学生の夜も高校生の夜も寝るのが惜しくて、こんな風にぼんやり考えていた。ベッドの中でウォークマンを聴きながら泣いたり、今じゃなくてこの先のことを考えていた。その頃から基本的には、ずっと一人だった。もっといろんなことを考え直さないといけないのだと思う。こんな風にどうしようもないときに、そばにいてくれる人がいないっていうことが、決定的なことなのだと思う。

とあるおじいちゃんにも会ったんだけれどまた今度

travisのライブに行ってきた。なんばhatchに入って入場待ちしていた時からうすうす感じたけれど、travisのファン層かなり好きだ。同い年くらいから中年まで、国籍もちらほら外国人がいて、さまざまだったんだけど、みんな穏やかだけれど熱くて、travis

が本当に好きなんだなあって感じだった。全体としては30代が多かったのかなあ。女性もジーパンにTシャツスニーカーみたいな動きやすい感じの人が多くて、こんな感じの気のいい女の子とお友達になれたら素敵だろうなと思った。モッシュのときもぐいぐい押してくる感じなくて、節度があったし、ノリもみんな様々だし。日本のアーティストのライブだと、この曲のこのメロディーはこの振りで動く、みたいな暗黙のルールが結構ある。ライブにしょっちゅう行かないとわかんねえよそれ、好きにのらせてくれよ、って結構ストレスがたまる。その振り以外は変に動くと浮くし、ちょっと窮屈だったりするんだけれど、今回は始まった瞬間からそれが全くなくて、リラックスして聴けた。   

 travisを知ったのはone tree hillっていうアメリカのドラマで登場人物の女の子が好きなバンドとして出てきたからだった。そのころ家にいても何にも楽しくなくて学校も楽しくなくて、日テレの深夜にやってる海外ドラマを録画して親が買い物でいない間にこっそり見るのが好きだった。5年前くらい?まさかtravisを生で見られる日が来るとは。travisはinvisible bandが理想って言っているように、あんまり派手じゃないから来日してもテレビの歌番組にはまず出ないし、フジロックには毎回来ているけれどフジロック一緒に行ってくれる友達がいないので。フジロックに一緒に行く友達がほしい。願望って口に出せば叶うっていうけれど本当かな。travisは20年バンドを続けていて、メンバーの改変も途中で活動休止もない。ツアーで四六時中メンバーといることでバンドの維持が困難だった時期もあったようだけれど、そこを乗り越えてベストな関係でバンドを続けている。その落ち着きというか、しなやかな強さというか、この人たちは好きなことに真剣に取り組んできたんだな、っていう輝きがもうすごかった。輝くって攻撃的な輝きじゃなくて、ホワンとした、後光みたいな、聖人の頭に描かれる輪とか、仏像が背負っている光の輪とか、そういうしるしとしての輝きのことです。我慢していたものがほどけてだばだば泣いてしまった。泣きながらリズムに乗る。ステージに手をのばす。メロディーを一緒に口ずさむ。周りも熱くなってステージに釘付けだからいくら号泣していようと誰も気にしない。みんなそれぞれがそれぞれに同じ空間にいる。ボーカルのFranがcloserを歌うとき、世の中はだんだんクレイジーになってきているように思えるけれど、皆がここにいて一緒に歌う、こういう小さいことが大切なんじゃないかな、みたいなことを言っていた。英語だったけれど何を言っているか分かって、ああ、もっと広い世界に行きたいと思った。たぶん、深いところに行けば言葉なんて関係なくてそこには人と人の向き合いがあるだけなんだと思う。そして、そういう関わり合いができなくなる環境にはなるべくならいたくないなあ、と思った。今はやむを得ずそういう関わりができなくなりがちな場所にいるけれど、自分にできる最善を尽くすことが今できることだなと思っている。先は、分からない、保留。

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小さくて広いところ

 

 バイトをしていて思うのは、どの空間に行っても、人の悪口を言う人はいるんだなあということ。そういう人って自分で勝手に自分のハードルを上げていて、それを人にも求めている。それ自分がつらいだけだからやめなよ、というか自分に完璧を求めてかつ他人にも完璧を求めるって、それいったい何を求めているんだろう、ならこんな小さい環境にいないでもっとそういう人たちが集まる一流企業とかに行けばいい。1に1かけたって永遠に桁は上がらない。風通しの悪い空間は嫌いで嫌いで、高校にいたときもちょっと偏差値が高いからって進学する大学の話ばかりが持ち上がるのがすごい嫌になった。多分そこで敵を高校にしないで何とかして気が合いそうな人を見つける努力をすればよかったんだけれど、高校が敵なら全生徒が敵みたいに思えてきちゃって、今思えば私の頭も狭かった。

 ぼくの地球を守ってという漫画の、コミックの余白の著者コメント欄に、「地面に足をつけて、両手をお空に広げて」っていう言葉がある。多分生き方としてはそれが理想で、高校時代の自分は地に足もついてないし腕組みしてじっとしていたんだな、と思う。まず地に足を、まずはそれからだ。じゃないとどんな場所に流されてしまうかわからない。同じ場所にじっとしていると、人に新しい何かとかストレスのはけ口を求めてしまうけど、人じゃなくてものに向かえたらいいのに。だから博士か職人になりたい。

 この間、グランフロント梅田でやっていた、「漫画、9番目の芸術」展を見てきた。グランフロント梅田という梅田駅からすぐの建物で、なんとなくショッピングモールだと思っていたんだけれど、入った瞬間空間の異質さにくらくらした。大丸とか高島屋みたいな百貨店でも入った瞬間に、金の動くエネルギーの圧力に疲れてしまうんだけれど、それとはまた別だった。ふんだんに金が動いている、かつ知がうごめいているというか、インテリジェンスの知じゃなくて、資本主義社会における知というか、あの空間はすごかった。建物の真ん中がホールになっていて、ちょっと休める椅子がいくつかおいてあるんだけれど、あまりにくらくらしたからそこにへたり込んでアーモンドチョコレートをむしゃむしゃむさぼった。しばらく放心状態でチョコを食べていて、ふと意識が現実に戻ったらすぐ後ろで企業の研修会みたいなのが始まっていて、大量のスーツ姿の学生たちがいた。絶対見られてた。2mくらいの距離だった。これだから、ほんとにこれだから。動物園の猿か、私は。なんかちょっとそれがあまりに決定的で、こういう空間に結局私は馴染めないのか、とつくづく思った。

 でそれからこのまま展覧会行く元気がなかったから、昼はワッフルとか食べていたんだけれど、建物のなかのカフェでカレーを食べた。そのカフェも8種野菜のサラダランチとかなんとかかんとかのジェノベーゼみたいな、つるっとしたキレイなメニューがあったんだけどそんなもん食べても滋養にはならないからカレーにした。生野菜って毎日毎日たくさん食べるものではないと思っている。胃が疲れる。精をつけたいと思っているときはやっぱり力強いものがいい。そしたら偶然にもそのカフェが大日本製紙(働いている本屋の親会社)が協力しているカフェだった。こんな洒落たこともしているんだ。ふーん。長机には各席にタブレットが設置されていて、いかにもビジネスマンなスーツ男性がマックをパチパチしていた。デザイナー系のnumeroだかfudgeだかそういう系の服の女の人とか、果ては長身アメリカ男性二人組とか、とにかくそんな23区のスタバからいい感じにそういう都会的でグローバルな人たちを厳選して寄せ集めました、とでもいいたげな空間だった。多分世の中を背負っているってこういうことなんだろう。常に進むこと。下を見ないこと。社会の流れに追いつきたいなら下層を相手にしてはいけない。エリート思想は大事。高校の同級で、東大に行ったのはそういう人たちだった。自然にエリートの位置に落ちつける人。でもそういう人たちは嫌いじゃない。ちょっとでもそこになじめない人は別の国立か医学部、落ちて私立に行ったようにみえる。むしろ苦手なのはそっちの人たちに多いけどその話は割愛。

 

 話を「漫画、9番目の芸術」展に戻す。すごい疲労感だったから見て回れるか不安だったけれど、入った瞬間ふわっと体が軽くなるくらい楽しい展覧会だった。そもそも9番目って言ってもじゃあ8番目まではなんなの、って話で、流石はルーヴル美術館の展覧会。そこはきちんと解説があった。

 

 

 

※フランスにおける芸術の序列。第1から8までは順に「建築」「彫刻」「絵画」「音楽」「文学(詩)」「演劇」「映画」「メディア芸術」とされる(諸説あり)。   

公式HPより。

 フランスでは漫画は日本のようにコミックで安いものではなくて、 バンド・デシネといって、写真集みたいな大きさと値段のアートブック的なものとして売られているらしい。だからエンターテイメントよりも文学色が強くて、それはそれで見ていてかなり面白かった。主にフランスと日本人の作家の、ルーヴル美術館をテーマにした特別漫画の一部が展示されていて、内装も漫画に合わせてデザインが変わっていてわくわくした。フランスの作家の漫画は、絵と文学の融合というか、絵のもつ脳にダイレクトに訴えかける抽象的な強さと、文学が書く重々しくも避けようがない人間の業を上手く一つにしていて、新鮮ですごいよかった。映画に近いけれど映画とはやっぱり違う。やっぱり漫画は漫画で、すぐ近くにある感じがする。音楽と絵と違って文学だけは人を選ぶというか門が狭いというか、閉鎖的で万人受けはしないところがあるけれど、漫画は文学性を持ちつつも大衆に開かれていていい。芸術は大衆に開かれていなければならないと思う。時々これは昏さを抱えすぎてはいませんか、みたいな作家もいて、もはや漫画ではなくて変な絵で、なんか怖くなってそこは素通りした。これは確かにアートブックとして読む重さだ。気に行った作家の漫画を全部通して読んでみたくなって、売店でそれも売ってたけれど、フランス語全然わからないからやめた。美術館の売店で気にいった絵の絵ハガキを買うのがすごく好きなんだけれど、この展覧会のグッズ製作者の絵ハガキのセンスは悪くてあんまりいいやつ買えなかった。まだ既存の作家の絵が多いから権利もろもろ難しくて作るのが難しいのかもしれないけど、なんでここのシーン絵ハガキにしたの?っていうのが多かった。ちょっと残念。

 

www.gengaten.info

 

 三月いっぱいでバイトを辞めると社員に言った。言った瞬間一瞬目を見開いていたけれど、2秒ぐらい沈黙したあと「分かった。」と言われた。理由は聞こうとしてこなくて、さすが分別をわきまえているなあと思った。あまりにスっと話が流れていきそうだからむしろこっちから説明してしまった。あまり深く突っ込んでは説明したくないから理由の概要だけふんわり話した。宇多田ヒカルのある歌の歌詞に、「言葉に全部は託せなくても 声に出せば少しは必ず伝わるはず」っていうのがあって、ほんとにまさにそれで、形だけでも言葉にしないと好き勝手に判断されてしまうからなあ。こわこわ。なんでも言った方がいいんだな、伝えることを億してはいけないな、言わなきゃわかってもらえる可能性をつぶしてしまうもんな。

 そしたら一緒に働いていた24歳の女の子も、大学を退学して学費を稼いでいるところだっていうことが判明した。今年の夏から復学届を出して大学に戻ろうと思っているらしい。私の働いている本屋にはもう一人私と同じ大学で休学中の23だか24歳の女の子がいる。その子はレンタルビデオ店の夜勤と掛け持ちして働いている。まさかコスモから出てまでこんなコスモ的な人達、しかも女の子、に会うとは思っていなかった。類が友を呼んでいる。いや正確には友じゃないから何かこう類が類を呼んだにすぎないけれど。一年近く一緒に働いていて何にも知らなかった。傷つきたくなくて常に周りを警戒して生きているところがあるから、たぶんそのせいでつながる縁も繋げず生きている。もともとなんでそういうのがあるのかっていうとたぶんなんか理由は分かっていて、これはまた今度書く。今日は風呂がくめたので風呂に入って寝る。

まだ現われていない階層があるたぶん

 昨日は七時半ごろかな、バイトから帰ってきて昨日の余り物の回鍋肉と白いご飯を食べて、そのあとまだお腹がすいていたので甘いものをバクバクっと食べた。そのあと急激な眠気に襲われて、八時半ごろ着替えも歯磨きもお風呂もほっぽって布団にもぐりこんだ。それからはいったん11時半ごろ目が覚めて、喉がぱっさぱさだったので布団脇に転がっていたタンブラーのコーン茶を飲んで電気を消して、次に起きたのは朝の五時半だった。

 やっぱり私よく寝ないと駄目みたいだ。睡眠不足が続くと脳が妙に糖分(特にチョコ)をくれくれうるさいし、体はねむいねむいってオギャオギャうるさい。このうるささは、ヨッシーアイランドで赤ちゃんのマリオがヨッシーから離れて浮遊しているときの、

「アアアァ~ン!!!!!!!!アアアア~ン!!!!!!!!!!!!!」

って叫び声にそっくりでとても耐えがたい。つまりは無理をするなっていうことなんだろうけれど、生活は毎日続くし、死ぬまで生きなければいけないので、どうしたって無理が続く日は出てくる。仕方ないよね、分かってほしい。こんな感じで自分の中にインナーチャイルドを抱えて生きているので、誰かと付き合うとか、ましてや自分の子供を持つとか、手に余る。そもそも想像に余る。いや千手観音みたいに手がいくつあったって体は一つなので無理です。ひいいいいいいいい。世の中の人間は付き合うとか仕事とかそして結婚さらに出産とこれを順当に成長に合わせて難なくクリアしているわけで、人生常にスーパーサイヤ人状態かよ・・・と恐れ入ってしまう。

 今働いている本屋には子育てしながら17時まで働いている女の社員さんがいる。まあここまではありふれていると思うんだけれど、もう長年勤めていて(たぶん15年以上だと思う)出版社の営業さんたちからもこのジャンルの本担当といえば、○○さんって信頼の定位置にいる。本屋の店員なんて長年勤めてやっと一人前、って感じてバイトなんて雑用以外役に立たないから、長年のベテラン書店員ってすごく大切なのだ。(一見さんお断り、よろしく一年さんお断り、みたいな。京都にはそういう職場がたくさんあると思う。神社もそう感じた。)だけど、定時上がりだから、夜までいて店の管理業務ができないから、管理職にはなれない。それってひどくない?あ、子育てする女性の社会進出が難しいって、こういうことか・・・。働けない、っていうことではなくて、どんなに頑張り続けてもある一定以上から上へは行けない、給料は上がらない、っていうことなのか。

 このあいだ管理部の人がきて、人件費削減の話になって、昼過ぎで上がる主婦の人を置いとくのはどうなの??って話しているのが聞こえた。店長が、「長年いてくれているし、この人に会いに来てくれるお客さんもいるから」ってきちんと突き返していて、あっ素敵だなあって思った。店長はめちゃくちゃぶっきらぼうなんだけれど、地域の人とか長年の付き合いの人をかなり大切にしている。だから他の書店にはない、直接個人と取引して仕入れている商品が割とある。お客さんにはそういう書籍目当ての人が時々いる。ただ書店自体が大手だから、それを目当てとしていないお客さんもたくさん来て、そっちの需要というか欲求にはこたえられていないとは思う。数でいえばそういうふらっとくるお客さんが9割だから、やっぱりカフェ併設型の書店とか、独立店舗じゃない店には負ける。ニッチな欲求だけにこたえていくには店の規模がでかすぎる。だから人件費の削減に行きつくんだろうけれど、そうすると残った社員の仕事が増えて、売り場作りとか店頭接客に時間がさけないからどうしても店の雰囲気自体がパッとしなくなる。そうすると客はてきめんに離れる。こういう店舗にどばっと資本を注げるほど会社は余裕がない。

 そもそも上に書いた管理部の人が、ブックカバーを置いたらどうかみたいな提案をしていて、アホなんじゃないかと思った。現場を知っているつもりで実は全く見えていない。管理職の手腕の力のなさが下につくものに及ぼす影響の怖さを感じた。いやいや彼らも若かりし頃は現場でバンバン働いていたんだろうけれど、本って情報の塊だから、常に今の店の様子を知っていないと役に立たない。立地によって客層も買う人がどういう種類の本をよく買うのか全く違うだろうし。客に何かを買わせることしか考えていなくて、目新しいものを置いて一時的に売り上げを伸ばすことと、お客さんが満足して次もまた来てくれることは違う。これはもう全く異なる。ネット購入と、書店の違いはもはやそこに人がいるかどうかしかないんじゃないかと思う。正直本の量と、流通の速さは圧倒的にネットのが客の要望に応えている。接客はもちろん、ネットのサジェスチョンと人が作り出す売り場は違う。店員が売り場づくりにさける時間を作ってあげるのが管理部の仕事だと思うんだけどなあ。